北海道東部の訪問販売バス「ムービング・ブティック」が婦人服の買い物難民を救う――2台のマイクロバスを活用した訪問販売が主力のティ・アンド・エヌ(田村清治社長、電話0154・36・7811)。キャブオーバー型バス、トヨタ「コースター」の車内にじゅうたんを敷き詰めて、婦人服専門店仕様に改造し、道東部を中心に販売している。中標津、釧路、根室、羅臼のほか十勝地域を含め、約700の顧客を一件一件、直接訪問して対面販売する形態だ。この地域で婦人服専門店の廃業が相次ぐなか、「あなたに一番近い店」「好きな時に、好きな場所でお買い物」を掲げるムービング・ブティックが、今日も北の大地を駆け巡る。ー7月22日付け繊研新聞より
■直接自宅へ
初夏の夕刻、道東・中標津の牧草地帯に溶け込むようなブルーグリーンカラーのマイクロバスが民家の玄関先に静かに滑り込んだ。縦長の5畳(約8平方㍍)ほどの店内には左右に8ラック、約160~200着の商品が揃う。50代後半から60代をメーンターゲットに、ワンピースやパンツ、カットソーなどレディスアパレル全般のほか、レザーシューズなどのファッショングッズもある。
マイクロバスが到着すると、間もなく家の玄関が開いた。「朝6時半からずっと仕事。ちょうど今帰ってきたのよ」と常連客が顔を出す。道東部の夏の訪れは遅いとはいえ、実需で夏物を買い足したいところ。顧客は車内で早速、品定めを始める。スペッチオ、シバタ、エムズグレィシー、香織などの商品が並ぶ店内で「仕事着になるような物が欲しいの」とポロシャツやストレッチパンツなどを探す。
気に入った商品を見つけると、天井からロールスクリーンカーテンをスルスルと下ろして試着を開始。姿見鏡が備え付けられた車中奥の”簡易フィッティングルーム”のなかで5、6着を実際に着てみる。顧客は「いつもは百貨店のカタログ通販で買うことが多い。”田村さんの車”に来てもらうようになって、10年以上経つ。こうやって自宅まで来てもらうと助かるし『何か買わなきゃっ』て気持ちになっちゃう」とほほ笑む。
田村社長は「今の60代は習い事にも積極的で外出する機会が多い。団塊世代をメーンターゲットにすることで、まだまだ婦人服の需要をつかむことができる。トータルファッションを意識して品揃えするのは通常の専門店と変わらない。”親子買い”などのエージレス化も進んできている」と今後の事業の展望を見いだしている。
■気持ちをくみ訪問
移動バス販売には独自の販売ノウハウがある。車体はあえて目立たないようにシックな無地のブルーグリーン。宣伝になるような目立つカラーリングやキャッチフレーズ、社名さえ車体にプリントされていない。「目立たないことが大事。ご近所の手前『隣の奥さんは、また新しいお洋服を買っている』と思われたくないのが女心」。
顧客のなかには、バスが訪問した際に、購買する商品は決めるものの、その場で持ち帰らず取り置きするケースもある。「後日、家のご主人が留守の時間帯を見計らって商品をお届けすることで、ご主人から『また、服を買っている』と小言を言われないで済む」と、細やかなデリバリーで気配りする。「ひそかに『あなたのために来ましたよ』と訪問するのがポイント」と言う。
田村社長は「不況だ不景気だと言って、店の中で待っていてもお客さんはやってこない」。顧客の嗜好性、サイズはもちろん、習い事の曜日やその時間帯、勤務日時など”足で稼いだ”顧客情報をもとに、品揃えや販売のタイミングを見計らう。婦人服の買い場が失われつつある地方の町で、ムービング・ブティックの存在感が増している。
■”大きな風呂敷”
ティ・アンド・エヌは78年からメンズスーツなどの紳士服をライトバンで移動しながら販売していた。当時の中年男性の外出着はスーツと相場が決まっており、そのマーケットは道東地区でも大きかった。
移動販売を立ち上げた当初は順調に売り上げを伸ばしたものの、紳士服専門店チェーンが全国的に多店舗化し、道内にも進出するにつれて、同社の売り上げは鈍化した。そんななか「だんなの服以外に、私が着る服はないの」とする女性客の声を受けて、田村社長は仕入れ品をワンピースやスカートなどの婦人服に切り替えていった。80年代の前半には、婦人服の販売が売り上げの主力を占めるようになった。
田村社長はこの時期を境に、ライトバンからマイクロバスに乗り換えた。ライトバンでは訪問販売1件ごとに中標津の営業所に立ち寄り、商品を補給しなくてはならなかった。訪問件数が多くなるにつれて、逐一、事務所に立ち寄らなくても巡回販売でき、多品種を運べるマイクロバスによる移動販売に切り替えた。「ライトバンの時はお客さんが求めるジャケットなど、単品で届けていた。バスにすることでサイズのバリエーションも含めて、パンツやブラウスなどトータルにお勧めすることができ、客単価もアップすることができる」。婦人服のムービング・ブティックの誕生だった。
田村社長は今日も自らハンドルを握る。「私は商品を運んで売る”担ぎ屋”。大きな風呂敷がバスに代わっただけ。潤沢な資金のある大手は主要道路を走ればいい。私は枝道を走る。そこにビジネスチャンスがある。買い物難民といわれる人たちの役に立てればうれしい」と胸を張った。