福岡のセレクトショップ「ダイスアンドダイス」が今秋、開業30周年を迎えた。業界では知られた名店だが、その道程は平坦ではなかった。14年には体調不良の創業者からの承継が困難になり、旧知の役員がいたアングローバルの一事業部に。東京に店を出したこともあるが、最古参で店を取り仕切るディレクターの吉田雄一さんは「これからは福岡にこだわっていきたい。気持ちは今でもインディペンデント」という。
(永松浩介)
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ダイスアンドダイスは、熊本の名店「パーマネントモダン」のトップ販売員だった木下芳徳さんが89年に福岡市中央区にオープン。現店舗の近く、わずか20平方メートルほどの小さな店だった。立ち上げメンバーには、のちにデザイナーとして花を咲かせた信國太志さんもいた。
木下さんはファッションの不良や軟派なイメージを払拭(ふっしょく)したいと考え、「服ではなく文化を売ろう」とスタッフに繰り返し説いた。文化の伝え手として、あいさつなど従業員の振る舞いには特に厳しかったという。
品揃えは人ありき
品揃えは「自分たちが面白いと思うものを仕入れて売ろう」がコンセプト。店を主語にするのではなく、人ありきで品揃えや店舗展開をしてきた。バイヤーがいないのも同店ならでは。「売っている人間が一番尊い」と考え、販売員が仕入れに出向く。
信國さんのほか、今は「ミノトール」のデザイナーである泉栄一さんもトップ販売員として仕入れをしていたという。「うちでトップになれば、どこに行ってもバイヤーとして通用するはず。全員マイケル・ジョーダンですよ」と吉田さんは笑う。
店名はザ・ローリング・ストーンズの名曲にちなむ。振ったダイス(サイコロ)の目が行き先を決めたかのような柔軟さは創業時から。飛行機嫌いの創業者の代わりに、オープン前に米国に買い付けに行った信國さんが仕入れてきた「バンズ」や「ギャップ」にはみな驚いたが、それも振ったダイスの目だったのだろう。結局、それが評判となって同店は一躍知られることになり、その縁で、のちに「ステューシー」の九州の代理店を任され、店も数店出した。00年頃には店舗は6店ほどに増え、卸事業も手掛けていた。
50年後を見据えて
昔ながらの専門店気質は今でも変わらない。今やオリジナル比率が高いセレクトショップも多いが、同店は仕入れのみ。気心の知れたデザイナーが同店向けに作る商品は多少あるが、基本は変わらない。
そこには、創業者の考えが色濃く反映されている。「探して、探して、それでもなくて、さらに、それ以上のものを自分が作れる自信があるなら」というのがオリジナルを作っていい条件。利益率が高いなどという理由はもってのほかだった。
人材の採用もユニークだ。「ファッションが好き」「おしゃれな子」というより真面目で人とのコミュニケーションが好きな人間がいいという。「センスは努力で磨ける。3日で変わる」が先代の口癖で、吉田さんもそれを守っている。
現在の店舗は3層で、地階は直営店を除けば日本一の品揃えという「ヤエカ」(メンズ、レディス)、1階は「アナトミカ」など。アナトミカはメーカーの直営が入居する格好だが、販売は共同で行う。2階は「セブンバイセブン」「スノーピーク」を柱に、メンズ中心に「イノウエブラザーズ」「アロハブロッサム」など個性豊かな約40ブランドを揃える。
「本当に色々あった。でも、今となってはそれら全てが糧(かて)」と吉田さん。実際、売り上げはここ3年ほどずっと好調で、単店で比べるとピーク時の売り上げを超えているという。
なんでもチャレンジしてきたことが好調につながっている。「やらないで後悔したくない。トライし続けてきたことがお客さんに伝わり、いい風に回っている」。数多くのチャレンジができたのは、アングローバル傘下になったことが大きい。「会社の要求は『とにかくかっこいいこと、ダイスらしいことをやってくれ』なので」
イベントにも力を入れる。「福岡で一番多くデザイナーと触れ合える店」を自負し、作り手を招いたイベントなどを月に一回以上は実施する。「ニューヨークでも東京でも、どこに出しても恥ずかしくない、かっこいい店」が目標だ。「50年後を見ようよって」。お客にも後輩にも店の伝統を伝えながら、福岡を拠点に大きくしたいと青写真を描く。