これまで「ファッション教育の今」を連載してきましたが、今回からは教育に限らず、世界のファッションの現場で起きていることを取り上げます。ニューヨーク、ロンドン、アントワープで学び、現在は日本で服作りに携わる中で得た視点から、背景や構造に踏み込んでいきます。
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産官学一体で推進
第1回は「アントワープがなぜファッション都市となったのか」です。「ベルギーでファッションを学びました」と言うと、多くの人に「なぜベルギーなのか」と問われます。ヨーロッパでファッションといえばパリ、ミラノ、ロンドンが一般的で、ベルギーがそこに並ぶイメージはありません。ベルギーは長らくファッションの発信地ではなく、繊維産業の集積地でした。フランダース地方を中心にリネンや毛織物、レース、縫製が発展し、高い技術力を持ちながらも、その多くはパリなど他国のモードを支える役割を担ってきました。
この状況が転換する契機となったのが、80年代初頭の産業政策です。繊維産業の停滞を背景に若手デザイナーを支援する取り組みが始まり、教育機関と産業、発表の場が結びつきました。賞制度など学生を支援する仕組みも整えられ、デザイナーを目指す人が増えていきます。アントワープ王立芸術アカデミーでも、技術の習得以上に創造性を重視する教育が行われ、学生は独自の視点を磨くことを求められました。
80年代、こうした環境から登場した若いデザイナーたちはロンドンで発表の機会を得て、国際的な注目を集めます。それがアントワープシックスです。彼らはその後パリへと発表の場を移し、国際的な評価を確立しました。さらに、アントワープシックスの一人であるウォルター・ヴァン・ベイレンドンク氏が教育に関わったことで、この思想は次世代へと継承され、00年代には「ベルギー派」と呼ばれる流れが形成されました。

パリからの脱却
興味深いのは、パリという強い中心に従属するのではなく、ベルギーから独自のスタイルを持つデザイナーが現れた点です。繊維産業による確かな基盤と、巨大市場から距離があった環境が、商業に過度に回収されない独自性や実験性を育む土壌となりました。
現在、パリのファッションシーンをけん引するデザイナーの中には、ベルギーを背景に持つ人材が数多く存在します。表現は一見すると多様で、共通したスタイルを見いだすのは難しいものです。しかし、コンセプトを起点に服を構築する姿勢や、商業と一定の距離を保つ立ち位置、個の強さを前提としながらも表現にとどまらず商業として成立させようとする点は、通底しています。
アントワープシックスの登場と、その後に続くベルギー出身デザイナーの国際的な活躍の背後には、繊維産業の蓄積と政策、教育が結びついた流れがあります。ベルギーからは、パリやロンドンにはない新たなファッションのDNAが生まれ、その影響は現在にも続いています。今もベルギーにファッションのイメージが十分に定着しているとはいえませんが、私たちはその過程を目の当たりにしているのかもしれません。

