仕組みは作っても現場に悩み
女性の活躍・登用は政府が掲げる成長戦略の一つだ。仕事を続ける女性に追い風が吹く一方、すでに、女性に限らず、より多様な人材や働き方を求める時代に入っている。ただ、ここに至る30年前、性別によって雇用上の待遇に差異があったことで、「男女雇用機会均等法」が設けられた。今、ファッションビジネス業界でも働き方の新しい仕組みが模索されるなか、改めてこれまでの道のりを振り返り、未来へのヒントを探る。
同じ土俵
85年6月、「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇を確保するための労働省関係法律の整備等に関する法律」が制定された。これが、後に一部改正されつつ、「男女雇用機会均等法」「均等法」などと呼ばれる法律だ。施行は86年。この年の4月、新卒で採用された世代が均等法第1期生となった。
法律の施行まで、男子大学生だけを募集・採用する企業がほとんどだった。女子大学生を雇用する企業は少数派。いわゆる男性のアシスタント的な職種はあったが、女子学生が男性のように、自分自身で生計を立てようと考えた場合、開いている門戸を見つけること自体が難しかった。日本では、男性が主な働き手となる片働き世帯が大半だった時代だ。後にバブルといわれる好景気に突き進み、企業で働く男性たちの労働時間も現在より長かった。社会的・経済的な自立を志向することは、男性と同じ土俵に上がることを意味した。
均等法1期生の女性たちは、こうした募集・採用で差別的な扱いを受けることはなかった。ただ、入社後、「女子社員だけ、朝30分早く出勤し、全員の机を拭くなどの業務があった」「4月分から、同期の男子社員と給与の等級が違っていた」といった現実に驚いた人も多い。均等法には罰則がないためだ。現在、ここまで、あからさまな処遇を想像できる人は少ないかも知れない。しかし、ごく自然に男女の働く環境作りを目指す仕組みは作ったものの、実際には見えない壁がいくつもあった。
各論は反対
「総論賛成・各論反対」という企業内の壁も存在した。90年代に入って、女性の採用と定着に積極的に取り組む企業は増えたが、「現場の声」に悩まされる人事部は多かった。経営方針は理解しても、「自分の部や課に、新卒女性社員は回さないでほしい」という本音を、ぶつけられる。例えば、ある繊維メーカーでは総合職の女性の割合を30%以上に高める目標を掲げたが、研究部門の専門職やスタッフ部門は一定進んでも、営業部門の抵抗は強かった。消費者への直接の販売ではなく、企業間の取引で、糸やわたを古くからの繊維産地で買ってもらうのが仕事だ。そこには独特の商習慣や人間関係があり、例のない女性社員を担当者に据えることは、簡単ではなかったからだ。
しかし、辛抱強く採用から育成に取り組んだ企業では今、女性の中間管理職も珍しくなくなった。20年以上をかけて、女性社員の数を増やし、〝母集団〟作りへの努力を続けた結果だ。
(繊研新聞 2015/12/17 日付 19377 号 1 面)