昨年、創業90周年を迎えた三城ホールディングス。48年前にパリに出店して海外に進出し、国内で長く業界1位の座を占めていた眼鏡専門店の老舗だ。ファストファッションの流れで競合が激化する中、改革を断行中。「お一人おひとりにお合わせする」ことを企業理念に掲げ、この10年で眼鏡フレームの製造や修理、レンズの開発や加工も国内自社工場で行える基盤を整備した。国産の質の高い商品とサービスの提供とともに、地域と客層に合わせた魅力的な店作りに注力し、リブランディングに挑んでいる。
競合激化を受け改革で物作り強化
――昨年で創業90周年。
戦前から姫路市で、眼鏡と時計の販売と修繕を行っていた長い歴史をもつ企業です。「他にない新しい価値の創造」を掲げ、いち早く73年にパリのオペラ通りに初の海外店を開設。翌74年から東日本に出店を開始し、全国への店舗網拡大期に入った時期が分岐点の一つです。
海外では現在14カ国・地域で、約120店を展開しています。欧州では単店舗中心、中国ではハイエンド向けに約35店を運営し、今は人口増加中のアジア圏、特に東南アジアなど成長市場に積極的に投資を行っています。ハノイ市に眼科病院を開設し、医療と連携したビジネスで利益が出ているベトナムやフィリピンでの成功事例を基に、今年中にカンボジアでも新会社を設立し、医療と連携した眼鏡ビジネスを開始する計画です。
グローバル経営の観点から、国内事業と海外事業の重要性を同列に位置づけています。私もオーストラリアに10年いましたが、海外では人事や経理から商品開発、店舗開発まで全て経験します。流行などの情報を得て市場を知る勉強をしたり、工場や銀行との交渉も学べる。前任も前々任の社長も海外事業の経験者で、世界に通じる自立した社員と経営者の育成の場としても役に立っています。
――国内事業の現状は。
全都道府県に店舗網を広げ、90年代までは国内眼鏡市場で圧倒的な1位の座を占めていました。眼鏡は製作技術の習得に時間がかかる業種ですが、自動加工機など機械の発達により産業障壁が低くなり、00年ごろから様々な業界から新規参入が増加。ファストファッションの流れで中国産の低価格品が入ってきて、3万~4万円した眼鏡を5000円前後で売る店が増え、単価の下落により市場が縮小しました。日本の眼鏡の市場規模は、00年のピーク時から半減し、現在は約4000億円です。
当社も国内外の総稼働店舗数が1000店を超えた00年をピークに、不採算店舗の退店に伴って売り上げが減少。現在の国内店舗数は約660店で、業界内では2位、売り上げでは業界3位となっています。三城ホールディングスの20年3月期売上高は483億700万円で、消費増税の反動減やコロナによる営業縮小の影響で前期より2.8%減少したものの健闘。社長に就任してからは黒字基調で、業績は安定しています。
――眼鏡業界の競合が激化する中で取り組んできたことは。
売り上げが下がり始めても過去の成功体験がもろ刃の剣となり、世の中の変化への対応が遅れていた05年、商品開発チーフを任されました。オーストラリアで積極的な商品開発と、客層や地域に合わせた対象別の出店を行い、子会社を再建した実績が買われ、改めて三城の哲学を注入することを託されたのです。創業以来の理念を受け継ぎ、「個性の違う一人ひとりに合わせた商品の提供」を目指し、ホールディングス体制に移行後の10年、改革に本格的に着手しました。
眼鏡専門店として、長く使える高品質な商品を提供するため日本製にこだわり、チタン製眼鏡フレームを世界で初めて開発した創業104年の歴史を持つ福井の会社を11年にグループ化しました。この自社工場では3Dでの製品デザイン、直彫りでの金型作成など最新のデジタル技術を駆使しつつ、職人の匠(たくみ)の技を大切にし、ほぼ全工程を一貫生産しています。軽くてかけやすい日本製フレームに、薄型遠近両用も選べるレンズ付きで1万8000円の差別化商品など、独自商品を増やし、今は在庫の約6割が国産です。
19年に眼鏡枠の修理専門会社、オプトメイク福井をグループ化し、購入後のサービスも拡充。2年間、フレームとレンズを定価の10%で修理と交換ができる追加保証制度も設け、安心して眼鏡を使えるサービスを提供しています。
地域に合わせた魅力的な店作り
――改革の主な内容は。
物作りの基盤を整え、自社工場の品質を世界レベルまで引き上げ、アフターサービスも迅速に対応できるようになり、今はサービスを強化中です。「ビジュアルライフケア」をコンセプトに、個々人の用途や悩みを聞きながらカウンセリング型視力測定を行い、各自の生活に合った眼鏡を提案しています。89年に眼鏡の専門学校を設立し、通信教育も活用して以前から社員教育に力を入れてきました。認定眼鏡士など視力測定の資格保有者が700人おり、遠近両用の接客など技術力には自信があります。
出店政策では、不採算店舗の退店を進めて経営体質を改善しつつ、小型店の統合も含め、積極的に改装を行っています。眼鏡屋は白が基調で個性がなく、看板を隠すと、どこの店か分からない店舗が多い。創業者の理念を受け継ぎ、「用事がなくても入りたくなる仕掛けがあり、ときめきを感じる店作り」を目指し、一見、眼鏡屋と思えない店舗への改装に力を入れています。
赤字が多く利益面で最下位だった渋谷店を1号店に選び、年配の人は懐かしく感じ、若者には新鮮な50年代のアメリカンダイナー風の店舗に10年に改装しました。ロックスターの愛用品と同じ型のギターやベース、ジュークボックスやアンプ、キャデラックも置いて当時の雰囲気を演出。夏は店内にヤシの木を飾ってビーチボーイズの曲を流したり、ステージを作ってライブを開き、コロナ前は入店客数が平日で600人、土日は1000人に増えました。サングラスが売り上げの50%以上を占め、売り上げは改装前の倍増、利益は全店トップに躍進しました。
渋谷店の再建以降、いくつかのカテゴリーに分け、客層や地域性に合わせた店作りを行っています。若者が多く集う街では渋谷店に習い、ポップな内装の「エンターテイメント」型店舗に改装。2階でライブハウスやバーを運営する店もあり、当社の主要顧客は60代以上なのですが、20代の客の開拓に成功しています。東京の吉祥寺や麻布十番など都心の商店街では「ベルエポック」をテーマに、18世紀後半から19世紀前半のパリをイメージした店舗に改装。アンティーク家具やシャンデリア、アールデコの絵を飾り、レコードでジャズを流しています。
国内の6割を占める郊外店は家族向けに、ロッジ型のログハウス風店舗に3年前から再生を始めました。木造で天井が高く、デッキと広い駐車場、カフェを併設し、コーヒーを提供するなど、ゆったりくつろげる店作りが好評です。東京の下北沢やスペイン坂では10~20代向けに、眼鏡で遊ぼうをテーマに「サーカス」風の店舗を出し、低価格の眼鏡と玩具や雑貨も販売。昨年からコンビニエンスストアの居抜きを利用し、おしゃれに改装した「メゾン」型店舗も出店中です。
魅力的な店作りを追求しないと実店舗は生き残れない。個性的で遠くからでも一目で三城の店舗と分かり、内装の家具やギターも本物にこだわった楽しめる空間作りを心掛けています。ベルエポック型では団塊ジュニア、ロッジ型では女性や家族連れの新規客やリピーターが増え、SCからの出店要請も増加中です。採用の応募者も、洋服のセレクト店との併願や音楽経験者が増えました。改装による1店舗当たりの売り上げ向上策や90周年のテレビCM効果で、コロナ下でも既存店では昨年6~8月は客数が2ケタ増となり、10月以降も堅調です。カテゴリー別店舗は現在220店ですが、来期も移転を含む出店20、改装30店を予定しており、将来は全店をカテゴリー別にしたいと思っています。
――今後の計画は。
引き続き実店舗の魅力作りに磨きをかけます。渋谷店では60年代のホンダのバイクを飾り、バイク用の眼鏡や革ジャン、Tシャツ、古いレコードも販売しています。ロッジ型店舗の一部では、地元の菓子店と協業してケーキの限定販売を始めていますが、地元店との協業を広げ、行きたくなる仕掛けを増やしたい。ウクレレ教室の発表会、テント張りや眼鏡作り体験、天体観測会も行っており、地域に密着し、顧客参加型の催しを開き、地域を盛り上げたいです。
基礎工事をしないと高いビルは建てられません。この10年の改革で社員に方向性が理解され始めたので、次は新たな市場作りにも挑戦したい。音に着目していて、年代物のスピーカーなどオーディオ環境が整い、補聴器ルームも備えた店を増やし、レコードの音を楽しんでもらいながら聴力測定も行い、新しい市場を作っていきたいですね。
■三城ホールディングス
1930年兵庫県姫路市で前身の正確堂時計店を創業、時計と眼鏡の販売・修繕を手掛ける。50年三城時計店を設立、60年にメガネの三城に改称し、眼鏡専門の小売店へ移行。73年フランスに現地法人を設立、パリ店を開設し、世界の主要都市へ海外出店を開始。74年東京都中央区にパリーミキを設立、東日本地域に本格出店を始め、国内でも全国に店舗網を拡大。80年眼鏡光学機器の技術研究・開発を主な目的にパリーミキ技研を設立、88年パリーミキがパリーミキ技研を吸収合併し、三城に改称。96年東京証券取引所市場第2部、98年市場第1部に株式を上場。00年国内外の稼働総店舗数が1000店を超え、09年純粋持ち株会社へ移行し、三城ホールディングスに改称。製造と修理の自社工場などグループ会社を増やし、品質向上とサービス強化、三城ブランドの確立に注力している。
《記者メモ》
20代で本店の店長を経験し、海外での実績を買われ、人事や商品開発、MDを任されたたたき上げの社長だ。従来の商品を仕入れて販売する形式から、独自商品の開発を強化し、一人ひとりに合わせた商品を提案する今の形式に切り替え、黒字転換への道を作った立役者。「社長業は全ての皿を回さなければならず、全てを深く理解して判断するのが仕事」と、物作りから店作りまで全てで先頭に立ち、改革を推し進めてきた。同社では珍しいプレイングマネジャータイプの社長だが、仕事熱心で現場によく足を運び、社内外から人望が厚いという。学生時代からビンテージ眼鏡のコレクターで、ビートルズを愛し、バンドでの演奏やギターの収集が趣味。商品開発や店作りにも趣味を生かし、楽しんで仕事をしている様子が伝わり、周囲を動かす力になっているようだ。「おもてなしだけでなく、これからの小売りはエンターテインメントの楽しませる要素が必要」と語る澤田社長の言葉には説得力があり、今後の活躍に期待したい。
(河邑陽子)
(繊研新聞本紙21年1月22日付)