あの企業も始まりは一つの店からだった

2016/01/01 06:16 更新


【センケンコミュニティー】企業の原点の店をたどる

 今では全国的に有名になった企業の、創業の地を知っていますか?

新年号のセンケンコミュニティーでは、各社の当時を知るあの方々に、1号店やその後の変遷にまつわる貴重なエピソードを語っていただきました。各社の現在のショップと、創業当時の写真もぜひ見比べてみて下さい。日本のファッション業界の歩みを感じることができるはずです。

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■空白地帯にカジュアルウエア/アダストリア

■焼きもちが起業後押し/クロスカンパニー

■桑名からフェミニン、全国へ/アイジーエー

■新小岩に荒物雑貨店/サックスバーHD

■人が集まりやすいところ/しまむら

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■アダストリア 水戸の高校生でにぎわう 空白地帯にカジュアルウエア

 福田三千男アダストリア代表取締役会長兼最高経営責任者(CEO)の祖父が大正時代に学生服を販売、戦後に父・哲三氏が福田屋洋服店として紳士服小売業を始める。後に福田会長が入社し1973年、茨城県水戸市泉町にFC形態のメンズカジュアルショップ「メンズプラザ・ベガ福田屋」をオープンさせた。郊外型紳士服チェーンへの対抗策として始めたカジュアル事業、これが同社の原点だ。

 「当時は、高校生が服を買いに行くような店がほとんどなくてね」と福田会長。裕福な家の子供が通う男子校が近くにあったためそこに目をつけ、飲み物で販促をかけてまず女子学生を店に呼び込んだ。「男女交流がなかなかできなかった時代。男子学生が詰めかけて、初めて水戸に高校生が集まる場ができました。当時だからできたやり方でしょうが」

 仕入れには苦労した。「『VAN』も、近隣の他店が契約しているといった理由で最初は扱えなかった」という。「東京の問屋も水戸までは売りに来ないし、買い付けに行って『どこから来たの』『茨城です』とやり取りすると、『常磐線には売れないよ』と言われました」。一方で、空白マーケットだった水戸でカジュアルウエアを扱ったことで大きな売り上げをたたき出し、「父の代から支払いはきちんとするようにしていたので、問屋さんとも取引しやすくなりました。水戸で始めなければうまくいってなかったかもしれません」。

 その後、多店舗化を進めたが、FC店のベガをやめてその地で新しく自分の店を始めることにした。「仲間がよく釣りをやっていて、そこにヒントを得て人が集まる店に、との思いで店の名前を付けました」。それが82年に開始した「ポイント」だった。93年には社名もポイントに変更。ポイントは15年、会社統合により現在の社名となったが、アダストリアの企業としての本店所在地は今も水戸となっている。

「メンズプラザ・ベガ福田屋」(写真は76年の初売りの様子)

「メンズプラザ・ベガ福田屋」(写真は76年の初売りの様子)

「ベガ」は後に「ポイント」に。現在は美容室になっているという

「ベガ」は後に「ポイント」に。現在は美容室になっているという

同社の最近の店舗(東京・原宿の「ニコアンドトーキョー」)

同社の最近の店舗(東京・原宿の「ニコアンドトーキョー」)

 

■クロスカンパニー 焼きもちが起業後押し

 クロスカンパニーの1号店は、石川康晴社長の出身地でもある岡山市にあった。「14歳の時に、将来は自分で店をやると決めて、300万円たまった23歳の時に起業しました」と石川社長。「ちょうど友人がサラリーマンを辞めて古着屋を始めたところで、そのいきいきとした姿に焼きもちを焼いたというか、自分も早く始めないと、と思ったのを覚えています」。

 94年7月、岡山市表町の商業施設にわずか13平方㍍の小さなセレクトショップ「クロス」をオープンした。店名には、人と人が交差して化学反応が起きる、という意味を込めた。開店資金のうち、100万円を欧州などからの買い付けにあてたが、「自分でためたお金だったから仕入れも慎重だったし、身の丈に合った経営を考えていましたね」。ハンガーは100円均一ショップ、レジは中古で3000円、レジ台も拾ってきたものを使い、自分でペンキも塗ったという。

 1年目の給料は月1万円。たくわんとソーセージの付いた小さなおにぎり弁当を買って2食分に分けて、日々をしのいだ。「だから当時はガリガリにやせていました」。年を追うごとに順調に収入は上がっていき、油断した頃に最大の危機がやってくる。赤字転落、あわや倒産かという中で99年の9月、岡山駅前のオーパ(当時)に「アースミュージック&エコロジー」をオープン。セレクトショップからSPA(製造小売業)への転換点だ。この店に高校生や大学生など500人が行列を作り、その後の東京進出や多店舗化につながっていく。

 クロスのあった商業施設は出店から数年で閉館し、跡地は駐車場になっているという。

 石川社長は現在も岡山の振興のためのさまざまなプロジェクトに関わっており、地元への愛は深い。

ニッチで高単価のブランドを扱うセレクトショップだった「クロス」(一番左が石川社長)

ニッチで高単価のブランドを扱うセレクトショップだった「クロス」(一番左が石川社長)

「アースミュージック&エコロジー」1号店には長い行列が

「アースミュージック&エコロジー」1号店には長い行列が

最近の同社の店舗(「アースミュージック&エコロジー」イオンモール岡山店)

最近の同社の店舗(「アースミュージック&エコロジー」イオンモール岡山店)

 

■アイジーエー 桑名からフェミニン、全国へ

 アイジーエーが小売業に進出したのは1973年だが、現在の原点となる1号店は、2002年に出店した「三重・桑名ビブレのアクシーズファム業態1号店」と五十嵐義和会長。この年に社名変更とともに、卸から小売業への転換もあって、「大きな1店だった」と振り返る。

 同社が直営店を始めたのは73年のジーンズショップ「アベニュー」から。しかし、駅前立地で、郊外SCに押され、徐々に閉店を余儀なくされた。

 レディスショップ多店舗化は、88年福井・武生の郊外SCから。開店当時の店名は「アベニュークラブ」だったが、すぐに「アクシーズ」へ改称。店ロゴは「AXES」の大文字、店イメージカラーは赤だった。「店名はAから始まる名前にするよう指示したんです。価格を下げてから2年目に年間売り上げ1億円になりました」

 ヤングから支持を得て、大文字アクシーズは北陸中心に18店まで拡大した。しかし客層が低年齢化し、出店を断られることが出てきた。SCが団塊世代ジュニアをターゲットにするようになったためだ。

 02年桑名ビブレ出店は「当時話題だったSCで、成功したかった。大人向けにフェミニンを取り入れ、店名英字を小文字に変更、店舗カラーも赤から茶へ、見え方をブティックに変えたんです」。開店初日から売り上げ快調。翌年に2号店を神奈川のイオンモール大和に開設し、一気に全国出店にかじを切った。その後05年にSPA(製造小売業)化し、全国展開へ、そして海外は上海、パリへと広がっていく。

 創業は1941年。創業地の武生駅前には自社ビルがあり、「グローバルブランドに向かって」の看板を掲げている。

桑名ビブレの「アクシーズファム」業態1号店。ここから全国展開がスタートする

桑名ビブレの「アクシーズファム」業態1号店。ここから全国展開がスタートする

アクシーズファムららぽーと海老名店

神奈川の2号店から今も同じ店舗内装デザイナーが携わっている。内装イメージが現在の店舗に通じている

 

■サックスバーHD 新小岩に荒物雑貨店

 現在、600店に広がったバッグ専門店、サックスバーホールディングス(HD)の創業は1938年。木山剛史社長の祖父が東京・新小岩に荒物雑貨店を開いた。家具や乳母車、トランクなど大ぶりの雑貨を扱う小売業としてスタートし、48年に個人営業から丸二商会という会社に変更した。今ではアーケード商店街の一角になっており、AOKIの新小岩駅前店となっている。

 74年、木山社長の父(木山茂年現会長)が東京デリカを設立、日本一のバッグ専門店を目指して店を引き継いで再スタートし、多店舗化に乗り出していく。新小岩の店は「東京デリカ」本店となった。木山社長は「当時はオリジナルを強化していた。私は店の近くに住んでいたが、店よりも自分たちのうちが在庫の山で、バッグの入った段ボール箱の上を飛び回って遊んでいた記憶が強く残っています」。その後、各店仕入れとなり、在庫を削減、オリジナル品中心から仕入れ中心の品揃えに転換した。

 木山社長は90年に同社に入社した。駆け出しの頃には本店にも勤務した。「私は声が大きい方だったのですが、商店街の対面のお店に声の大きい男性のスタッフがいまして、私も負けじと大声で張り合い、呼び込み合戦していたことはよく覚えています」。

 やがて本店は東京デリカから「ラパックス」に業態を転換した。本店の売り上げは減少傾向で厳しかったものの、木山社長は「会長や先代の思い入れの店として可能な限り残そうと思いました」と存続させてきた。しかし、会長が不採算店の閉鎖に聖域はない、と決断し、2013年に75年の歴史に終止符を打った。

昭和20年代の丸二商会

昭和20年代の丸二商会

「東京デリカ」だった頃の本店

「東京デリカ」だった頃の本店

現在の「サックスバー」

現在の「サックスバー」

 

■しまむら 人が集まりやすいところ 世の中が変わると立地も変わる

 15年12月10日にグループ2000店を達成したしまむらの創業の地は埼玉県小川町。1953年に島村呉服店として設立された。同町に現在も店舗を構えるが、場所は動かしている。前社長の藤原秀次郎相談役は「世の中が変わると立地も変わります」として、「根は張らないし、自由に動きました」。初期の店舗で閉めた店はないが、同じ場所で営業している店もない。現在の小川店は3カ所目だ。

 藤原相談役が入社したのは1970年。企業の形が整い〝会社を大きくしたい〟というオーナーに応えて藤原相談役が打ち出したのは多店舗化だったが、「はじめから理詰めでした」と、出店コストのかかる当時の商店街ではなく「住宅街で人の集まりやすいところ」を目指した。不動産屋は頼りにならず、自分で用地確保を進めた。

 〝人が集まりやすいところ〟は以降もキーワードになる。ただ、時代とともに自転車から自動車に来店手段が変わるから立地も変わるという訳だ。そしてロードサイド中心になる用地探しも「上空から見た方がいい」として自らセスナを駆るようになった。

 もともと呉服店だったしまむらが総合衣料品店になったのは小川町を襲った洪水で商品を失ったのが機。そこで東京で仕入れた商品をすぐに売り切る「低価格の高速回転」を打ち出した。そして「店をつくりたかった。そのために何をするかを考えました」という中で、商品力を磨いた。店が少ないころから「現金払いにしており、20店くらいになった時に買い取りに切り替えました」。そうした取引条件は、競合店に対して「圧倒的な商品力」を実現した。

 しまむらは現在、都市部、商業施設への店舗展開を進めている。これも〝人が集まりやすいところ〟を求めて変わってきた姿。小川町から東松山市、そして現在のさいたま市宮原の本社も2、3年後にはさいたま新都心に移転する計画。「私は行きませんけど」と笑う。

創業当時のしまむら(2号店の東松山店)

創業当時のしまむら(2号店の東松山店)

自動車で“集まりやすい”現在の店(南与野店)

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