【パーソン】玉木新雌代表取締役 玉木新雌さん 「想定外」積み重ねオンリーワンを
先染め織物で知られる兵庫県西脇市を中心とした播州織産地で、独自のデザインと物作りを発信しているブランド「tamaki niime」(タマキニイメ)。デザイナー自ら産地に移住、織機や染色設備などを自社で持つ強みを生かし、ショールや衣料品を中心としたオンリーワンの製品を多く生み出している。国内でも他にないクリエイションの仕組みを構築し、支持を広げてきた。最近では様々な企業やブランドとの協業も活発だ。玉木新雌さんに、これまでとこれからを聞いた。
自分にしかできない仕組みを作りたい
――ブランドを初めて13年、ここ西脇に来てからも10年たった。
最初にブランドを立ち上げたころは、アンチファッションという思いが強かったですね。私がまだ専門学校に通っていたころ、海外大手SPA(製造小売業)が大阪の心斎橋筋にできたんです。それまでは私の感覚では安物は安く見せていましたが、マネキンも高級なものを使い、世界観を伝えているのを見た時に衝撃を受けました。高級な物と安い物の違いを考えると、素材を良くするとかちょっとしたニュアンスの違いはあっても、生地を織りミシンで縫うという工程そのものに大きな違いはないじゃないですか。大きな差が出るのは、量をたくさん作ったら安くなって、量を減らしたら高くなるという理屈です。それが消費者には理解できないんじゃないかと思ったんです。それを見た時に、これから何も芯のないブランドは淘汰(とうた)されるなと感じました。でも服作りはしたいから、それでご飯を食べるためには知恵を出さないと生き残れないという危機感はすごくあって。じゃあどうだったらと考えた時に、日本の物作りの現状も把握して、私にしかできない仕組みを作ろうと。でもどうやったらいいかはわからず、模索する中で播州織職人である西角博文さんとの出会いが一番大きかったですね。播州織は綿の先染め織物で手間がかかるから、まねされにくい。西角さんが別注でオリジナルを作ってくれたこともあり、オリジナリティーも出せる。こうしたことが揃っていたことが決め手になりました。
――西脇に移住したきっかけは。
最初はしばらく大阪にいました。商工会議所のお誘いで、西脇にお店を出したのですが、遠隔操作で続けるか撤退するかを決めるため、試しに3カ月間住んでみたのがはじまりです。そこで西角さんとの距離が縮まりました。店が終わってから試織を見に行き、織りながら開発したことで、今まで1~2カ月かかっていたことが一瞬で終わり、伝えたいニュアンスもすぐに伝わる。織物に対する知識が深まったのはもちろんですし、物作りとしては西脇にいるべきだと思いました。西角さんは、生地をもうちょっと柔らかくしたいといった私の要望に応えてくれ、西角さんも私に投資してくださって、どんどんいろんな提案をしてくれました。だから西角さんとやってきたやり取りを、いずれ自分の中でできるような環境を作っていかないと、ということは考えていました。
――現在のショップ兼アトリエはかつて染色工場だった場所を改装したもので、織機は8台、丸編機や横編機もあり、かなりの規模になってきた。
面白いものを作るためにはこれくらい要りますね。いろんな色の作品を作ろうとすると経糸も種類があった方がいいから織機も増やさないといけない。ショールだけではなくパンツとかも作りたい。依頼しても作ってもらえないから自分たちでという部分もありました。エアジェット織機ではこの柔らかさがでないけれど、力織機なら出せるから力織機を入れよう。力織機だけでは生産性が悪いからレピア織機も入れよう。セーターも欲しいから横編機を、カットソーも欲しいから丸編機をと、欲しいから買っちゃうところはありますね。欲しいものを作るためにはどうしたらできるのかという積み重ねが今。これが完成かどうかもわからないし、まだ理想形を模索しています。
中古の機械をうまく活用、改造すると、まねされませんしね。ただ、風合いのために古い織機が必要なわけで、ハイテクは大好きなんですよ。レピアだったら電子ドビー装置とかを導入してグレードアップさせています。アイデアを出してから物作りまでの時間はなるべくスピードアップ、効率化させて色んな試作が出来る環境を作っています。
作り手の顔が見える作品を
――ショールや衣料品などオンリーワンの物作りが特徴ですが、意識していることは。
ブランドの個性として、「(ほかのブランドの)何々っぽいね」ではなく、玉木新雌っぽいと言ってもらえるようにしようとは言っていました。それは何かというと、「人工的じゃないもの」でしょうか。私はリピートが嫌いで、リピートじゃない織物を作ろうと言っています。世の中は効率を考えて同じものをたくさん作っていますが、人間ってみんなバラバラなのに、なんで同じものを着なくちゃいけないだろうってずっと思っていました。自己表現をした方が服は面白いし、お客さんがオンリーワンの服を選んでもらえる状況にしたかったですね。
また、作っている服をオンリーワンにした理由は、トライアンドエラーを一生やり続けたいから。例えば作品を作った後に「こうした方が良かった」とひらめいても、もしその服を展示会に出していたら半年後に売らないといけない。それが心苦しくて。半年間ごとにという仕組みが全く合わなくて、自分のポリシーを優先させた結果、オンリーワンがいいし、展示会には出さないという形になりました。そういう意味では年々売り上げ、取引先が増えているのも、今までそういった服が無いから買えなかっただけかもしれません。同じような思いのお客様が一定数いると、やっていて感じますね。
また、野菜のように、知っている人から買いたいというのもあるじゃないですか。本来ファッションも「この人がこういう思いで作っている」とわかった方が絶対いい。どうせなら作り手の顔が見えるものにしたかったですね。西脇で物作りをして、そこで買い物をしていただきたいというシンプルなメッセージの方がわかりやすく、それを伝え続けてきたのは良かったと思います。
――ブランドや会社のこれからは。
設備や人も増える中、最近まで自分の中で重荷に感じていた部分がありました。失敗しちゃいけないし、認めてもらわなきゃとか。今思えばストレスに感じていた部分もあって、周りを気にしすぎていた部分がありました。でも結果どうなるかわからないし、これからは基本的には直感に従ってより自分がこうしたいということをどんどんやっていこうと思っています。
自社ではできないけど、あったらいいなと思うものもあり、靴や傘といったアイテムに加えて、布についても他産地との協業も視野に入れています。今までは西脇にいることが多かったですが、最近は色んな産地の人と会う機会も増えました。そこで気付いたのは技術を掘り下げているプロフェッショナルは多いのですが、難しい技術の物が良いと思っているから、お客様目線で物作りできているところはやはり少ない。難しいものが必ずしもお客さんがいいものとは限りません。だから職人さんがやってきたことを私がやっても無意味で、職人さんと違う目線で物作りができるのが私たちの強みだと思っています。マニアックな職人さんと会って、その人の発想じゃない発想で話をして、面白いものを開発してもらえたら、今までにない面白い物がどんどん生み出せそうな気がします。
そういう意味では「一緒に過ごす」ことが重要になってきますね。例えば海外のアーティストに来てもらって設備を作って物作りしてもらいたい。そうすればうちのスタッフも刺激になるでしょう。作品を世界中に売るのはもちろん、どんどん世界中の人との交流もして、ここを新しいことが起こる場所にしていければと思います。自社の敷地内にショップと飲食スペースを併設した新たな建物が21年にできる計画で、東京の町田市にも新たな拠点を作る予定です。東京オリンピックもあり、海外の人に知ってもらえるタイミング。期間限定ショップにするのか、私が住むかは未定ですが、東京での拠点としていきます。
――以前にも増してチームワークの重要性が増してきたように感じます。
技術という面で見たら決してプロの集団じゃないけれど、その集団だからこそできる物作りを、チームでディスカッションして深めていける環境にしていきたいですね。若い子の面白い発想、アイデアをいかに生かせるか。ある意味「素人」だからこそ、プロの職人さんから見たら「そんなことしちゃいけない」という荒業が強みになると思います。現場で実際に織機を動かしながら、こうしようああしようというのは、物作りの現場があるからこそ。想定外の積み重ねが、「タマキニイメ」なんだろうなと思います。
■玉木新雌
兵庫県西脇市比延町でシャトル織機4台、レピア織機8台(内2台ジャカード織機)など織機のほか丸編み機5台、島精機製作所「ホールガーメント」横編機4台、染色機、ワインダーなども保有し、ショールをはじめ衣料品などを生産している。併設の飲食スペース「タベルーム」もあり、サンダル作りやオリジナルせっけん作りなどのワークショップも開催。今年からはユーチューブのチャンネルも開設するなど積極的な情報発信にも力を入れている。
【記者メモ】
オンリーワンを量産するという発想は繊維業界に携わる人ならだれでも考えることだろうが、Tシャツプリントやオーダーシャツやスーツといったアイテムの決まったものに限られるケースが多く、デザイナーブランドでそれをやろうと考えても「どうせ無理だろう」と実際に実現しようとする人はほぼいないだろう。玉木さんのすごさは、それを文字通り自らの手で形にしてしまったところにある。玉木さんがインタビューで語った「素人だからこその発想が強み」というのは、裏を返せば業界の常識に凝り固まった発想では新しいものを生み出すのは難しいということ。縮小が続く繊維業界だが、やり方次第では産地という地方にいながらでもファンを増やし、事業を続けていくことが可能だということを示している。これだけの規模、工程を自社で完結しているデザイナーブランドは、日本はもちろん、世界でも珍しいだろう。他にない存在として、これからも繊維ファッション業界の常識を打ち壊していって欲しい。
(三冨裕騎)
(繊研新聞本紙20年3月6日付け)