《セレクトショップの草分け、ビームスが歩んだ50年㊤》始まりは憧れの米西海岸

2026/03/30 14:00 更新NEW!


76年2月にオープンした1号店(『アンアン』1976年4月5日号Ⓒマガジンハウス ビームス公式サイトから引用)

 ビームスが50周年を迎えた。1976年に原宿に出した小さな店を皮切りに時代ごとに変わる最新・最旬のファッションやカルチャーを独自の目利きで編集、提案し、若者の文化・風俗に寄り添い続けてきた。セレクトショップの草分け的存在でもある同社の歴史を振り返る。

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軽くなった時代の空気

 ビームス誕生につながるいくつかの出来事は75年に起こった。一つはベトナム戦争の終結だ。60~70年代、学生運動が隆盛を極めたが、72年のあさま山荘事件を機に過激化に嫌気がさした若者が増えた。社会や政治の変革を求めるきっかけの一つだったベトナム戦争が終わり、学生運動の時代は終焉(しゅうえん)を迎えた。

 反戦フォークなどプロテストソングの人気が下火になり、若者が好むファッションも変化した。平和や反体制を掲げた米国のユースカルチャーが生んだ長髪にフレアジーンズ、花柄のシャツなどに象徴されるヒッピーファッションがリアリティーを失った。

 同じ年に読売新聞社が『メイド・イン・USA・カタログ』を出版した。「リーバイス」の「501」や「レッドウィング」の「アイリッシュセッター」など米国製の丈夫で実用性に富んだ服や道具、雑貨を網羅的に紹介したこの本は、ヒッピー文化以外にも魅力的なライフスタイルが米国に存在することを日本の若者に教える役割を果たした。

 「時代が夜から昼に切り替わって空気が軽くなったようだった」。当時の世の中の変化を現ビームス社長の設楽洋はこう振り返る。この頃になると、大学の周辺からデモの立て看板が消え、昼間にサーフィンやスケートボードで遊ぶ学生の姿が目立つようになった。

 大学を卒業した設楽が電通で働き始めた75年、父の悦三が突然「小売りをやる。アメリカの店をやる」と言い出した。経営する段ボールパッケージの会社がオイルショック以降、業績低迷に苦しみ、立て直しのために事業多角化を構想していることは承知していた。だが「アメリカの店」とはどういうことなのか。

米国の生活を売る

 聞けば、新宿を飲み歩いていた時に意気投合した若い男のアイデアという。後に雑誌『ファインボーイズ』の初代編集長となる土橋昭紳だった。『平凡パンチ』のファッションページを担当していた土橋は「次は米西海岸のライフスタイルが来る」と予測していた。

 70年代に起きた第1次サーフィンブームにメイド・イン・USAカタログのヒットが重なり、西海岸風カジュアルの需要は高まっていた。だが、都内で本物のアメリカンカジュアルが買える店はアメ横と75年にオープンした渋谷のミウラ&サンズ(後のシップス)くらいしかまだなかった。

 店の企画書を書いた土橋は「自分は店には立てないから」と、中学の1年後輩でレディスアパレルメーカーの営業職として働いていた重松理を悦三に引き合わせた。幼少期に横須賀の米兵居留区の近くに暮らした経験を持つ重松も米国の生活に焦点を当てた小売りには商機があると見ていた。

 話を聞いた直後は「どんな人かわからない」と設楽は懐疑的だった。しかし2歳上の重松と同様、設楽にも幼少期にテレビで米国のホームドラマを見て育ち、学生時代は米軍キャンプで遊び、洋楽にハマった下地があった。最終的には「アメリカの生活を売る店」というアイデアに賛成した。

 設楽家のゴーサインが出ると、重松は勤めていた会社に辞表を出し、75年の12月には有休を取って米国西海岸に買い付けに出かけた。重松の姉がパンアメリカン航空に務めていたので家族割引で航空券は安く手に入ったが、それでも予算は限られていた。

次第に洋服の店に

 原宿のはずれの八百屋だった土地に建てられた3階建てビルの1階の一角の6.5坪(21.45平方メートル)のスペースを借りた。在庫置き場が3坪で残り3.5坪の売り場に、青い空に白い雲のカーテンを飾った。ろうそく立てやネズミ捕り、スケボーのホイール、ジーンズ、スニーカーなどUCLAの学生の部屋にありそうなものを並べた。

 76年の2月に「アメリカンライフショップ・ビームス」がオープンした。アメ横のミウラ(シップスの前身)でのアルバイト経験のある岩城哲哉が店頭に立った。オープン直後の知名度が全くなかった時期、岩城は商品を載せたワゴンをセントラルアパート(現在の東急プラザ表参道原宿店)まで引っぱっていってチラシを配り、客寄せを行った。

 土橋は店に顔を出すことはなかったが、平凡出版(現マガジンハウス)とのつながりを生かして平凡パンチや76年6月に創刊された『ポパイ』でビームスを取り上げた。設楽も平凡出版に務めていた学生時代の知人、小黒一三を通じて得た「次に売れそうな商品」の情報を重松たちに伝えた。

 次第に原宿で働くファッション業界人がビームスに買いに来るようになった。雑貨より「リー」や「オシュコシュ」のペインターパンツ、UCLAの生協で買い付けたスウェットシャツや「コンバース」「ナイキ」のスニーカーなど、当時の日本ではまだ手に入りにくかった服や靴がよく売れた。

 知名度が上がって来店客が増えると、1号店はだんだんと洋服屋になっていった。3.5坪の小さな店の月商は76年の9月に500万円、オープンから1年で1000万円に達した。

(敬称略)

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