《センケンコミュニティー》タイムトラベル! 昔、どんなスタイルだった?
アイビールックやDCブランドブーム、パンクカルチャーなど、ファッション業界人にとって、流行の歴史はしばしば個人の歴史と重なります。いま業界で活躍するあの人は昔どんなスタイルだったのか、それを探ることはその人のファッションの原点を探ることかもしれません。「私のファッションの原点」をテーマにファッションビジネス業界で活躍する方々に語っていただきました。あのころ何を考え、今にどうつながっているのか。皆さんも昔の写真を見返してみてはいかがですか?
今回お話をうかがったのは――
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★ 「タケオキクチ」クリエイティブディレクター 菊池武夫さん」
★ リステア クリエーティブディレクター 柴田麻衣子さん
★ ファッションディレクター 萩原輝美さん
★ エムロマン 社長 大村秀子さん
そして番外編――
- ☆ 繊研新聞記者 小笠原拓郎
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「タケオキクチ」クリエイティブディレクター 菊池武夫さん
リアリティーのある服への憧れ
ファッションを意識し始めたのは、文化学院の美術課に通い始めたころからです。39年生まれで小学校にあがる直前に終戦を迎え、幼いころは物がありませんでしたから。
文化学院は特殊な環境でした。周りは画家を目指しているような人ばかりで、毎日学校へは行くけれど、玉突きやジャズ、映画や読書にあけくれる毎日。中でもヘミングウェイやカミュが大好きでした。映画で影響を受けたのはヌーベルバーグ。日常を切り取ったようなリアリティーのある生活にものすごく憧れました。当時の日本は生活においても決まりごとばかりでしたので。
そのころは既製服がなかったので、ファーの付いたレインコートやシャツなど、銀座に行ってオーダーして作ってもらっていました。その時ですね、服の面白さを知ったのは。20、21歳の時は、スーツを着て「フォックス・アンブレラズ」の傘を持ってというような格好で街を歩いていました。
ただ、僕は本流からずらして、人とは違う格好がしたかった。当時の日本にあるのはちゃんとした服ばかりでしたが、僕はもっと日常的に自分がやっていることを表現できる格好をしたかったんです。正統派はそれはそれでいいけれど、いろいろなタイプの人間がいるし、いろんな服があっていい。60年代、欧米を回ってヒッピー文化などに触れた時、「あぁ、これが自分がやりたかった世界だ」と思いました。
僕は、上質なものも、70年代にはやったチープシックのようなものも、どちらも好き。どっちの良さも分かることが自分の強みだと思います。
写真=銀座でオーダーしたシャツやジャケットを着ていた20代前半を経て、欧米の文化から影響を受けた20代後半はもっぱらヒッピースタイルだった
現在は黒のセットアップのイメージが強いが、普段はデニムスタイルが好きで、紺色の服を着ることが多いという
リステア クリエーティブディレクター 柴田麻衣子さん
学生時代から着倒れ、買い倒れ
高校生のころから、着倒れ、買い倒れの人生でした。住んでいたのは愛知の名古屋。当時はインスタグラムも無かったから、ファッション誌に地方の街頭スナップコーナーがあったんです。そこで撮影された縁から、雑誌の『ジッパー』でアルバイトをすることになりました。毎週東京に通って、誌面にも何度か登場していました。
当時、服は「ヴィヴィアン・ウエストウッド」と「コムデギャルソン」しか持っていなかった。遊んでいる中で身近にヴィヴィアンがあったし、ロンドンに短期留学したことで、あちらのファッション文化にカルチャーショックを受けた部分もあって。
大学卒業後は、ルシェルブルーの名古屋店にオープニングスタッフとして入社しました。販売をしていましたが、その時着ていたのももちろんヴィヴィアンとコムデギャルソン。それで、なんだかこの子は毛色が違うぞということになって、入社して2週間くらいで神戸のリステアに転勤になりました。ファッションって見た目を作る仕事だから、それが他とは違うということで周りが面白がってくれたし、雰囲気が違う販売員がいるから、その子の薦めるスタイリングを試してみようっていう顧客さんもついたんです。
コムデギャルソンを着ていても、足元は「マノロ・ブラニク」のヒールが良かった。一つのブランドだけが好きだったわけではなくて、色んなものをミックスしたかった。「世界中のいいものを集めて箱を作る」というリステアが実現すれば、私の理想通りになるなと思ったんです。
ファッションディレクター 萩原輝美さん
ファッションは天職
ファッションに興味を持ったのは、〝生まれた時から〟と言ってもいいくらい。父親がテキスタイルからプレタまで扱う会社に勤めていて、叔母はオートクチュールのデザイナー。家中にファッションがあふれている環境で育って、いつも好きな服を着させてもらっていました。
家族の次に影響を受けたのが、「ミルク」の大川ひとみさんです。15歳でミルクに出合って、しょっちゅう原宿の店に通っていました。ひとみさんにもすごく可愛がってもらった。従姉妹が結婚する時には、ミルクのウエディングラインのドレスを白から赤に染めてもらって、それを着て式に出たんです。ミルクだけじゃなく、ビギにニコル、ピンクハウスと、当時はDCブランドを制覇していました。
文化服装学院に入学すると、方向性が変わります。仲良くしていた男の子たちがすごく古着に詳しくて、本物志向だった。そういうのに洗脳されて、ビンテージに走りました。「リーバイス」のデニムに「マーガレットハウエル」の200双のコットンシャツ、「トニーラマ」のウエスタンブーツといった具合に、〝いいもの〟を買いまくって、着まくっていました。
卒業後はパリに留学し、帰国後の80年代後半は銀座の小松ストアーで全館のコーディネーターとバイヤーに。私は時代とともに自分自身が欲しいファッションに仕事として関わってきて、周りもそれを理解してくれた。ファッションは私にとって天職です。だからこそ、ファッションの楽しさを業界内外に伝えていきたいと思っています。
エムロマン 社長 大村秀子さん
はじまりは白いワンピース
中学3年生の夏休みに、初めて自分でワンピースを作り、家の近所の水道端公園(熊本市)で記念写真を撮りました。飾り気の無い白い無地のものでしたがお気に入りの一着でした。私にとってのファッションへの目覚めと言えます。
子供のころからお洋服が好きで、よく米国製の着せ替え人形で遊んでいましたね。お洋服を自分で作り出す以前にも、編み物で財布やハンドバッグを作っては、母にプレゼントしていました。喜んでくれたのを思い出します。
10代のころにはファッションへの憧れがまます強くなり、熊本市内の服飾専門学校へ進学しました。当時は学生だったのでお金はなかったですが「エルメス」や「セリーヌ」のベルトを背伸びをして買っていました。
20代で上京して、姉と一緒に日本橋室町かいわいで「カフェロマン」という喫茶店を開業しました。オフィス街の中にある私たちの店を訪れるお客様を対象にオーダーメードでレディスジャケットを仕立てる仕事もやっていました。当時はやっていたディスコ「赤坂ムゲン」にもよく通ってましたね。お酒はあまり飲めない方でしたが楽しかったです。
30代からインポートを中心としたレディス専門店をスタートしました。このころから私の身につけるファッションが劇的に変わりました。きっかけは「モスキーノ」を店で扱い始めたこと。カラフルでインパクトのあるデザインに引き付けられました。モスキーノは国内で有力百貨店もまだオーダーを付けていなかったころでした。私自身、イタリアに出向いて創業者のフランコ・モスキーノと直接商談して買い付けていました。
こうやって振り返ってみると改めてファッションとともに歩んできたなと感慨深いです。
番外編 繊研新聞記者 小笠原拓郎
当社のコレクション担当記者、小笠原拓郎のファッションの変遷もセンコミ取材班がたどってみました。
17歳ごろに古着に目覚める。信捧していたのは古着屋「赤富士」。20代になり、お金に余裕が出ると「コムデギャルソン」を買いまくるように。「年間200万円ぐらいは買っていたんじゃないか」と本人。
記者としてではなく、VIP顧客としてコムデギャルソンのショーに招かれたこともあり、その際は当時の繊研新聞のコレクション担当記者に「なんでお前がここにいるんだ?」と驚かれた。
それ以降はシーズンによって好みのブランドを買うように。ある時期はクラシコイタリアにはまりナポリでオーダーを重ね、またある時期は「トム・フォード」に傾倒、「マルタン・マルジェラ」に胸をアツくし、「PPCM」を買い尽くした時期もある。