私が駆け出しだったころ2酒井CEO

2015/05/03 15:35 更新


価値観が変わるときはチャンス
コンドットーレ酒井壽夫CEO

\

■変化に敏感に対応する

\

 ビジネスの価値が大きく変わる時、その変化に敏感に対応できるか。これが商売のだいご味です。私が経験した海外ブランドのビジネスでも、何十年もしてからライセンスをやめたり、縮小しています。これからはそうした穴を埋めるような、新しい事業の芽を作ることも必要になっています。

\

 72年に伊藤忠商事に入り、最初に配属された先は、英国を中心に生地を輸入する輸入紳士服地でした。73年に為替が変動相場に移行し、輸入には追い風の時代でした。所属課の売上高は半期で10億円が翌年に14億円強、次の年には半期で29億円へと急激に伸びました。

\

 ところが、74年の第①次オイルショックで狂乱物価が起こり、様々な商品の買い占め事件が起きました。問屋や商社の代表者が国会喚問され、商品も出荷できない。我々も喚問に対するデータ作りで、3カ月ぐらいは会社に泊り込み、寮にはたまに帰る、そんな時代です。今考えても、一番しんどい時期でしたね。

\

 輸入で商売が拡大したのに、自分たちとは直接関係のない石油の需給で制限される。どの方向が正しいか自問し、やはりこれからも輸入が拡大し、商社はそれをリードする時代になると考えました。

\

 その後、輸入繊維部は商売の中心が英国からイタリアに移り、85年にはミラノに赴任しました。生地だけではなく、ブランド製品の輸入、あるいはライセンスビジネスへと商売は広がりました。87年にはジョルジオ・アルマーニとの合弁契約も実現できました。

\

■文化の差を埋める

\

 自分にとって、海外との文化の差を埋める作業、それが輸入でした。当時はまだ、欧米の方が文化の価値が高かった。それを日本に注ぎ込み、ブランドビジネスやファッションの輸入によって、イタリアやフランスのブランドブームやジャパン社の設立ブームにつながります。そして、そこに近いところにいた人が商売の利益を得たのです。

\

 仕事にはその場所に入っていける力、あるいは勇気が必要だと思います。私たちより前にも、輸入卸の創業者や商社の先輩も大変な眼力があり、今のブランドビジネスの基礎を作りました。私もそうした方々と様々な場面で接し、そこに居合わせることができたことが力になったのだと思います。

\

 さかい・としお イタリア駐在時代を含めて、伊藤忠商事でチェルッティやフィラ、ダンヒル、ジョルジオ・アルマーニなどの契約に携わった。その後、ジョルジオ・アルマーニ・ジャパン副社長、グッチ・グループ・ジャパンではイヴ・サンローラン・ディビジョンCEO(最高経営責任者)、バリー・ジャパン社長などを歴任。コンサルティングのコンドットーレを設立、CEOを務める。

\


(FBプロフェッショナルへの道・繊研新聞 2014/07/25付8面から)

\

>>>>■私が駆け出しだったころ1・馬場社長



この記事に関連する記事

このカテゴリーでよく読まれている記事