ドイツの若者言葉に「メルケルン(メルケる)」という動詞がある。メルケル首相に由来し、決断しない、という意味で使われる。
世界で最も影響力のあるとされる女性に相応しくないように思える。実際しかしメルケル首相が一定の主義主張に固執したり、それを大声で唱えることは稀だ。権力保持には長けているが、政治観が無い、などと揶揄されることもある。難民問題に関しても長い間、明確な立場を示さずにいた。
そんなメルケル首相が8月末 、シリア等からの戦争難民受入の意向を明言し 、世を驚かせた。以来ドイツに向かう難民の流れは、今日までとどまることを知らず、今年だけでも80万人になると予測される。
国内各有力誌はこぞって、「マザー・メルケル」と歓喜しドイツを目指す難民を背景に、首相を マザーテレサや、民を導く自由の女神(ドラクロワ)などになぞり、茶化しつつも英雄化した。
フランクフルト郊外の難民用コンテナ住宅
メルケるメルケル首相はしかしこれこれまでも、ここぞ、という瞬間に、世の流れを変えるような潔い決断を下してきた。金融危機においてはすかさず預金保証を宣言。銀行から不要に預金引き出しを始めた国民を落ち着かせ金融制度が揺らぐことを防いだ。
前身は物理学者として原発推進派だったが、福島原発事故後、国内の空気を読み、立場を一転。脱原発を決めた。ユーロ危機においては向かい風を受けながらも、ギリシア救済ほかユーロ圏維持の立場を貫いてきた。
マザーテレサになぞられたメルケル首相(シュピーゲル 2015_9_19)
国内有力誌「シュピーゲル」誌は、何の利もない難民受入の理由は、自分や党の保身のために下してきたこれまでの決断と異なり、 「心からのもの」だろう、とする。彼女に 対抗できるような指導力を持つライバルがいないこともあり、良心に従った政治をする余裕がある、とも分析する。
一方「ヴィルトシャフツヴォッへ」紙は、少子高齢化で労働力不足が顕著化するドイツの経済成長のための合理的判断、とみる。
「ツァイト」紙も、国際競争力を保つための「高齢化よりは多民族化」への選択、と表現する。また、メルケル自身が、子供時代旧西独から東独へ移住、その後の東西統一を通じ危機的体験をしていることを、難民支援の動機の一つに挙げる。
民衆を導く自由の女神になぞられたメルケル首相(ヴィルトシャフツヴォッへ 2015_9_11)
しかし、
個人の尊厳はヨーロッパの市民だけでなく全ての人間が持つ権利だ。私たちが自らの(このような)価値観を破り難民保護を拒んだら、欧州の声は世界において重みを失うだろう
というメルケル首相の言葉に耳の傾けると、彼女が守ろうとしているのは、難民や経済を超えたものであるようだ。経済力だけみれば、産業革命発祥の地である西欧も、米・日に追いつかれ、最近は中国など新興国も肩を並べるようになってきている。
しかし、民主主義や人権、それらを土台とする政治・文化面では、西欧はいまだに世界の先導役としての魅力を放つ。 ドイツが欧州的価値を世界にアピールしつつ、少子化の中これを共有する人の数を保ち維持するには、(限界と困難は伴うにせよ)難民の経済・ 文化的統合は、 効果的で最も現実的な策のようにみえる。
とはいえ、メルケル首相への風当たりは強い。
国営放送による最新の世論調査によれば、首相への支持はこの一ヶ月で63%から54%に落ちた。 難民政策となると支持は3割をきる。極右等の反難民行動も過激化している。
メルケル首相が、難民、そして最終的にドイツを守る女神/母になれるかは、他の政治家や国民がどこまでついていくかにかかっているようにみえる。
フランクフルト在住。身長152cm。大きなドイツ人の中にいると小人のように見えるらしい。小回りだけは利くジャーナリスト兼通訳。ファッションからヘルスケアまでをカバーする。