今年は関東地方などで春一番が観測されなかったそうだ。そのことが象徴するかのように、おそろしく不安定な天候が続いた。みぞれやひょうや雪が降ったかと思うと、数日後は突然夏がやってきたような陽気。しかし、またすぐに真冬が戻ったかのような寒さに震えた。これまでで最も激しい変化をした3月の空だったと思う。
春は「すごい季節」
それでも空のご機嫌をうかがいながら外に出ると、沈丁花(ちんちょうげ)がよい香りを放ち、れんぎょうが白い花を滝のように流している姿が目に入った。桜の花もふんわりと咲き始め、山吹の黄色い花も見かける。公園で見かけた、名前を知らない白い可憐な花にも心ひかれる。
「なんとすごい/なんとすごい季節でしょう」というフレーズが頭に浮かぶ。これは、大島弓子の『綿の国星』という漫画の中で、ナレーションのように置かれた一遍の詩のような文章の一部である。小猫が生まれて初めて感じる春として、花々の咲く風景を捉えたその言葉を、春が来る度に思い出す。
こんなにめちゃくちゃな気候でも、春が来れば例年通り花を咲かせるけなげな植物たち。そう思うと、「なんとすごい季節」のすごさが、さらに増す気がする。
さびしさを抱えて
あらかじめ遺伝子にある さみしさが台所から花見をさせる (藤本玲未)
この春に出版された歌集『テリーヌの夢』(左右社)に収載されている短歌である。料理をするための台所で、立ったままその窓から桜の花を見ている。おそらく明かり取りのような小さな窓を、一人でただぼんやりと眺めていたのだろう。なぜこんなところからも花を見ようとするのか、という淡い疑問が導き出した上の句なのだ。
明るくて、華やかで、あたたかい春はうれしい季節に違いないけれど、ふいに理由なく気持ちが沈むこともある。実は遺伝子に刻まれている根源的なさびしさがあるのだと言われたら、合点がいくように思う。花見と称してやたらと集まって花を見ようとするのも、人恋しい遺伝子同士が呼び合った結果と思えばしみじみする。
桜が咲き始めたころ、久しぶりに友人と会って、近所を散歩した。小学校に桜がたくさん植えてあるので案内したのだが、フェンスに沿って黒い網がかぶせてあり、一部しか見ることができなかった。校庭をむやみにのぞかれないようにするための施策なのだろう。児童を守るために新たに取られた措置ならば、やむを得ないが、なんだか空しい気持ちにもなる。
私たちは、一人ずつ花を眺めるしかない時代へと向かっているのかもしれない。さびしさを抱えつつ見つめる花も味わい深い。花の方は、そんなこと知ったこっちゃない、なのだろうが。
(歌人・東直子)